| (2) 家に帰ると、玄関に割れたグラスが散乱していた。 僕は無言でそれを片づける。夕食の準備をしている母の後ろで、父がくだを巻いてい た。だが、帰宅した僕を目ざとく確認すると、途端に矛先を僕へと向けてくる。 ねちっこい罵声が、必要以上に僕を滅入らせた。 相手にされたがりの父の攻撃は、僕が怒りに震え、声を荒げるまで終わらない。 散々悪態をついた挙げ句、いきなり大声をあげ、手当たり次第に物を投げてきた。 こうなると手に負えない。 僕は自分の部屋へとこもった。扉の向こうで、物の壊れる音がする。 もうイヤだ。僕の顔を見るといつだってそうだ。 別に僕が嫌いなわけじゃないのは解かっている。 子供の頃は優しかった。ただ酒に溺れたのは、本人の生真面目な性格と、 当時の職場のストレスによるもので、僕たちにはどうすることも出来ない。 母は昔の父が忘れられない。僕はどうすればいい? 僕は母を一人には出来ない。心配で心配で仕方ないんだ。 逃げ出すことも出来ず、この先何年続くか解からない。 絶望の未来が、僕を待っていた。 ――神サマ、助けてください。早く僕を死なせてください―― ようやく寝ついたと思うと、いきなり大声で暴れだす。時計を見ると、深夜2時。 もはや正常とは思えない父の行動は、明け方まで僕の睡眠を妨害した。 そんな最中(さなか)だ。僕が夢を見たのは。 死にたい、死にたいと訴える僕の話を、老人が静かに聞いている。 あの、映画館の老人だった――。 「お若いの、そんなに死にたいかね」 「死にたい。でも、母さんを一人には出来ない。せめて誰か僕を殺してくれないかと いつも思っています」 「じゃあ、何故出てゆかん。死にたいとまで思うなら、出てゆけばよかろう」 「母を一人にしたら心配だ。母は出てゆく気がないんです」 老人は始終笑顔を絶やさない。それどころが僕を見てにっこり頷いた。 「子供はいつか、親元を離れる時が来る。お母さんを一人に出来ないんじゃない、 アンタが一人になりたくないんじゃないかね」 「……そうかも知れません。でも僕は、母の事を考えずにはいられない」 「お母さんと坊やの人生は別物だ。お母さんはお父さんと一緒にいることを選んだ んだろう。それをとやかくアンタが言う権利はないよ」 解かっている……。僕の胸に言葉が突き刺さる。 僕は愛されたいんだ。父にも母にも。僕が望んだのは、こんな家族ではない。 僕は……、自分の居場所を得るために“母には僕が必要”だと思い込もうとしていたん だ。もし、母までもが僕を必要としていなかったら、僕の生まれてきた意味がない! 親にとって子供が宝物だなんて、全ての親に当てはまるものではないのだ。 辛い環境の中にいると、次第に心は病んでくる。 親にとって子供が必要でなくても、僕にとっては、親が必要だった。 だから、悪いのはこの環境であって、父と母のせいではない。 ただ、今は大事な事が見えなくなっているだけで、本当は“愛されている”んだと 思い込もうとしていた。 どんなに物分かりのいい子供を演じても、母の言葉は僕を現実へと引き戻す。 独りで生きていくことなんて、僕には出来ない! 僕は愛されたいんだ。普通の親のように、時には心配してくれたり、時にはうるさかっ たり、時にはケンカしたり、時には一緒に歩いたり……。 やっぱり僕はバカだ! 現実に目を向けてみろ! 今の僕のどこに未来がある? いっそ死んでしまいたい……。甘い誘惑が僕を襲う。 「ワシは坊やのことをずっと見てきたんだよ。これからもずっと見つづける。生きてい れば辛い事もあるが、楽しい事だって必ずある。アンタは自分の信じた道を行けば いい。出てゆくのも人生。留まるのも人生。自分の選択に責任をとらなくてはならな い。ただ、どの道を選ぶのも自由ってことは確かさ。 アンタはがんじがらめに縛られている気だろうが、よく見てごらん。あの虹の向こう だって、アンタがその気になればいつだって行ける。どうだい、ちょっくら覗いてみる かい?」 見ると、老人の背中には、白い大きな翼が生えていた。 僕を後ろから抱きかかえると、やすやすと空へと浮かぶ。 一面に広がる青空と、地上の小さな街並み。 虹の向こうには、緑の大地が続いている。 山を越え、川を越え、南国の白い家やエメラルドの海。赤い花が咲き乱れている。 やがて砂漠を越えて、気温はどんどん下がり、雪と氷に覆われた大地を渡った。 世界は果てしなく続き、終わりがない。ただ、どこまで行っても、人々は生きている。 「悲しかったら泣けばいい。逃げたかったら逃げ出せばいい。怒りたかったら怒れば いい。楽しかったら笑えばいい。 全てはアンタの心ひとつさ。アンタは自由なんだから」 体が軽い。風が心地いい。“自由”……、なんて気持ちのいい言葉なんだ! 僕には知らない事が沢山ある。虹の果てには僕の知らない世界がいっぱい待って いる。僕はそれを……、歩いて確かめていきたい! 「坊や、歳はいくつだい?」 「17です」 「フッフッフ。まだまだだよ。どうだい、ワシと同じ歳くらい生きてみないか? それでも 死にたいようだったら、ワシは止めんよ」 老人に年齢を聞く間もなく、目が覚めた。 この日、僕の父は入院した――。 (3)へ (1) 物語へ |