天使の詩
(1)

『雨に唄えば』を見た。
外に出たら街は涙色で、僕は泣きながら帰った。
雨の中で歌なんか唄えない。
雨は泣くためにあるんだ。
僕の頬をつたう涙は誰にも気づかれない。
……雨は全てを流してくれた。

その映画館は、原っぱの隅っこに建っていた。
人を避けて歩いていた僕は、知らないうちに裏通りへと向かってしまう。
表通りと違って、この界隈は独特の空気があった。
外れかけた看板に、壊れたネオン。
いかにもカビ臭い簡易ホテルと廃墟のようなビルの間に細い路地がある。
僕は、ほんの気まぐれでその路地を進んだんだ。
建物を抜けた先は突然ひらけた空き地で、膝丈の雑草が一面を覆いつくしていた。

どんよりした重たい雲の下、小さな映画館がそこにあった。
とても誰も来そうにない場所。
半信半疑の僕は、入り口まで行って中を窺った。
時が止まってしまったような、古ぼけたポスターが貼ってある。
窓口の横には〔本日の上映―雨に唄えば―〕と手書きの黒板が置いてあった。
僕は奇跡的にも呼び鈴を鳴らす。
まもなくして中肉中背の老人が顔を出した。

老人は始終笑い顔で、僕はなんだか気まずかった。
僕はこういう人が苦手だ。心の奥底を覗かれそうで怖い。

料金は通常の半額だった。そうでもしなければ客が来ないのだろう。
館内はすでに暗闇で、収容員数100人くらいのこじんまりした中に、頭がポツンポツン
と見える。出入り口のすぐ側に座ると、映画が始まった。

――面白くもなんともない。

僕の目は映像を映してなかった。
巡るのは限界を超えた日常――。

父は仕事もせず、酒に溺れる、ろくでなしだ。
母は家計のために内職をしているが、父の酒代へと日々消えてゆく。
僕は何度も学校をやめると言ったが、母が卒業だけはしてくれと哀願した。
週3日のバイトではいくらにもならない。
気がついたら映画は終わっていて、観客は僕一人になっていた。
慌てて出ると、窓口にいた老人が出口のところに立っている。
相変わらずの笑い顔だ。

「ありがとうございました。また、お越しください」

外に出ると雨が降っていた。
水気を含んだ雑草が、重たく首をもたげている。
僕は、身動きできない現実に、泣きながら歩いた――。

次の日僕は、再び映画館の前に来ていた。
〔本日の上映―ティファニーで朝食を―〕と書かれてある。
どうやら古い映画を日替わりで上映しているらしい。

しかし僕のポケットには300円しかない。
バイト代が入るまでは間があるし、第一、映画を見る余裕なんて今の僕にはないのだ。
昨日はなけなしのお金だった。
僕は300円を握りしめたまま空を仰いだ。
この頃の大気はすっきりしない。それが却って心地よかった。
今にも降りそうな雲がそこまで来ている。
僕が引き返そうとしたとき、後ろから声をかけられた。

「間もなく上映いたしますよ」

昨日の老人だ。笑った目からは瞳は窺えない。ただ、何ともいえない温かさを感じた。
「いえ、いいんです」
軽く会釈をして帰ろうとしたら、再び声がした。
「いい映画ですよ。今のアンタにぴったりだ」
僕は少し、むっとした。
何にも知らないくせに……。幸せそうな顔が余計に腹立たしかった。

「お金がないんです」
「お金はいいですよ。お入んなさい」
「そんな訳にはいきませんよ」
「さ、始まりますよ。入った、入った」
老人は有無を言わせない。僕は促されるまま中へ入った。
ただ、老人の手が僕の背中を押したとき、何故かふっと、肩の力が抜けた気がした。
不思議と苛立ちが消えている。
席につくと、ニューヨークの朝が、スクリーンいっぱいに広がった。

昨夜(ゆうべ)僕は、母に思い切って言ってみた。
“母さん、この家を出て行こう”と。
しかし母は、“そんなことできる訳ないじゃない”と言って取り合わない。
“どうして?”と詰めよる僕に、母はただ諦めたように、
“どこまで逃げたって、追いかけて来るわよ”と背を向けた。
僕はバカだ。僕は子供なんだ。
それでも僕は、母に何度も言った。
――この家から逃げよう――と。

  〜ムーンリバー いつの日かこの川を渡る
       流れ者が二人 世界を見に旅立った
         二人が追い求めるのは 同じ虹の果て〜

僕には解かってしまった。
この想いが、僕一人のものであることを。

母は父と別れる気がない。
あんなに暴力を振るわれても。あんなに酷い仕打ちをされても。

僕は絶望していた。僕の未来に絶望していたんだ。
どこにもないムーンリバーなんてどこにもない。
僕も母も父もずーっとこの場所で生きてゆくんだ。
虹の彼方なんて、もし行くことがあるとすれば、それは死んだとき。

死にたい、死にたい、死にたい。

映画館を出ると、雨が降ったのか地面が濡れていた。
空からは薄日が射して、ビルの隙間に虹が見える。
僕は改めて自分に絶望した。

――神サマ、どうか早くアナタのもとへ連れて行ってください――

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