| (2) 老人がためらいもなく川へと足を入れる。 「おじいさん、危ないですよ、」 川幅は優に20mはあろうか、水深は計り知れない。 すでに2、3歩川に踏み入れた老人は、ゆっくりと振り返り僕に微笑んだ。 「もう長いこと家内と犬とは離れて暮らしてましてね。 ようやく、あいつのところへ行ってやれます。」 対岸から犬の吠える声がする。 老人が手を振るほうを見ると、ちょうど反対側に白い犬と女性が立っていた。 彼女が老人のいう〈家内〉なのか、年齢からみて老人よりはるかに若く見えた。 老人は川の中腹まで進んでいる。 思ったより浅かったのか、膝あたりの水を軽快にかきわけていった。 ――これで何人目だろう、この川を渡る人を見たのは……。 共に歩いた人もいた。すれ違うだけの人もいた。皆、どこからか現れ、いつしか 川の向こうへ消えてゆく。 ――何があるというんだ? 僕ははじめて線路を降りてみた。たいした土手もなく、そのままなだらかに川へと 下降している。対岸の景色が僕を誘惑した。 ――疲れた……。母さん、僕は歩くのに疲れたんだ。母さん、ゴメンナサイ…… 「ちょっと失礼! 俺が先に行かせてもらうよ、」 いきなり男に腕を掴まれた。乱暴だが痛くない。 「アンタ、まだ若いね。いったいこんなところで何をしてるんだい、」 「何って、僕は……。」 「お袋さんが心配してるんじゃないかい?」 男は、僕の父さんくらいの年齢に見えた。がっちりとした体つきで肌が焼けて いる。髪は短く刈っていた。 「僕は母さんとケンカして、家に帰れないんです。」 「そばにいればケンカくらいするさ。それより、離れているほうが淋しくないかい?」 ――淋しい この感情は何だろう……。淋しい、寂しい。 ――「ナオちゃん、お父さんのことだけど、誕生日を境にこれからは”お父さん”って 呼んでくれるかな。いつまでも”おじさん”じゃ、かわいそうでしょ。」 そうだ。このスニーカーは父さんと母さんが僕に買ってくれたんだ。 なかなか手に入らない米製の新作だった。少しきつかったけど、本当はすごく 嬉しかったんだ。……あんなことを云われるまでは。 ――「いいんだよ、ナオ君。気にしないで。おじさんはナオ君とお母さんと一緒に暮ら せるだけで幸せなんだ。無理して父さんなんて呼ぶ必要はない。」 ……違うんだ。 ――「おじさんはキミが再婚に賛成してくれただけで感謝している。 今すぐキミの父さんになろうなんて、おこがましいこと云えないよ。」 ……違うよ、僕はあなたに…… あの時の言葉は、僕をどんどん頑(かたく)なにさせていった。 生まれて初めて”父さん”と呼ぶことがどんなに恥ずかしいか。 生まれて初めて”父さん”と呼べることがどんなに嬉しかったか。 何故、素直になれなかったのだろう。僕は惨めなまでに子供だ。 突如足の裏へ、今まで感じたことのない地響きが伝わってきた。 電車だ。後方から電車が来る。この線路を歩いていて、電車と遭遇するのは はじめてだった。 「俺も早く行かなきゃな。アンタも、本来アンタが帰るべき場所へ帰るんだ、」 「帰るべき場所……、」 電車は僕の想像をはるかに越えたスピードで接近する……。 この感覚。コノ恐怖ハナンダ? 「さあ、行くんだ! アンタはここへ来ちゃいけないっ!」 男は叫ぶと同時に僕を思いっきり強く押した。 ――父さんっ!! 僕の身体は雑草の深い谷へと落ちていった―― (3)へ (1) 物語へ |