(2)
雲の上を漂っているのか。それとも水の上に浮かんでいるのか。
その柔らかな感触に目を開けると、真っ白い枕が視界に入った。
続いて見たこともない天井。数秒後、完全に覚醒した少年は、ベッドに上体を起こした。
いきなり痛みが右腕に走る。

“そうか。オレはあの時、気を失ったんだ”
少年は恨めしげに腕をさすると、舌打ちをした。腕には綺麗に包帯が巻かれている。

「ユーシス! 気がついたか。おお、まだ動いちゃいけない。傷が塞がっていないからね」
開け放たれたドアの向こうから、あの老人が慌ただしく入ってきた。
見えていない割には軽い足取りだ。
どこにぶつかる風もなく、老人は真っ直ぐ少年のベッドまで辿りついた。

少年は警戒した。まるで敵に出くわした野良猫のように、毛を逆立てた。
「ユーシス、父さんに顔を見せておくれ。こんなに痩せ細って、可愛そうに。軍隊では
ちゃんと食べさせてもらえなかったのかい?」
老人はひとりで喋りながら、少年の顔を覗きこんだり、細い肩に触れたりする。
気がつけば、少年は青いネルのシャツを着せられていた。
肩幅も袖丈もピッタリだ。

“この、じいさん。オレを息子と間違えてるんだ。どうする……?
バレる前に殺(や)るか?”
少年は探るような目で、老人を窺った。

「その目は見えてんの?」
「薄ぼんやりだがな。昼間はまだ見える。夜になるとさっぱりだ。ああ、この目が
見えるうちにお前に会えるなんて。神様、なんて感謝を言えばいいか」

少年は卑屈に微笑むと、素直な声で呼んでみた。
「父さん、会いたかったよ」
「ユーシス! もう一度言っておくれ」
「父さん。僕は父さんに会えて嬉しい」
「おお、おお。私もだ。私もだよ、ユーシス。この日が来るのを、どんなに待ち望んだか」

抱きしめる老人の腕の中で、少年は勝ち誇ったような目を天井に向けた。
「ユーシス、まだ幼いお前が軍隊へ志願すると聞いた時、口では名誉なことだと言ったが、
私は内心、お前を戦場などへはやりたくなかった。あの時、何故止めなかったのかと
今日まで後悔のし通しだったんだよ」
「父さん、心配かけてごめんよ。結局、腕を怪我してお払い箱だなんて。恥ずかしくて
人には言えないよ。ねぇ、お願いだから、僕が帰ってきたことを、町の人には言わないで」
「わかったよ。わかったよ、ユーシス。けして誰にも言うまい。さ、お腹が空いてないかい?
今、スープを運んでやろう」

老人が出て行くと、再び少年は柔らかいベッドへ横になった。

見たところ老人は、この家にひとり暮らしらしい。
おあつらえ向きとは、まさにこのことだ。腕の傷は当分治りそうにないし、老人は都合よく
自分を息子だと思い込んでいる。

少年は、昨夜の女を思い出していた。
慌てて枕辺にあるテーブルへ目をやる。自分が着ていた服はないが、金だけは
置いてあった。
女が命をかけて守ろうとした額は、一枚の金貨と銅貨が数枚。
少年は思う。世の中は常に無情だと。
誰からも求められていない自分が生き、真面目に生きてきた女が死ぬのだ。
みんな死ねばいい。
物乞いの自分に唾を吐き、石を投げた子供(あいつら)も。
食べかけのリンゴを泥に投げ、それを「食え」と言った大人たち(あいつら)も。
みんなみんな嫌いだ。大嫌いだ。

「フッフッフッ」
暗い目をした少年は、低い声で笑った。
しまいには高笑いへと変わり、その声は、暖かい部屋にこだました。


間もなくして、老人がトレーにスープを載せて戻ってきた。
きき腕のきかない少年に対して、老人はかいがいしく世話を焼く。
上体を起こす時、背中に添えられた老人の手に、少年は思わずぞっとした。
なんとも言えない不快感が全身を走る。老人が少年の左手にしっかりカップを
握らせると、軽く手と手が触れ合った。

――キモチワルイ、キモチワルイ、キモチワルイ。

動悸がする。何かが違う。老人の真っ直ぐな態度に激しい嫌悪感が生まれた。
「オレに触るなっ!」
少年はカップを払いのける。
熱いスープが老人の手にかかった。うっと短い声を上げて、老人は崩れ落ちる。
少年の目は憎しみに燃えていた。そのまま床に倒れた老人を見おろすと、冷たく言う。

「いいか、よく聞けよ。オレに構うな!」
だが老人は動じない。
「ああ、せっかくのスープが台無しだ」
老人は何事もなかったように立ち上がると、ゆっくり語りだした。
「ユーシス。残念だが学校は当分ムリだよ。なに、勉強なんかしなくても構わない
じゃないか。
父さんと同じ、木こりになればいい。今はゆっくり怪我を治すんだな」
「何、言ってんだよ。アンタ?」
「父さんに向かってアンタとは何だ! ユーシス、お前はそんな乱暴な口を利く子じゃない
はずだよ。ああ、急いで布巾を持って来なくちゃ。ちょっと待ってておくれ」

部屋を出てゆく老人の背を、少年はただ唖然と見つめた――。



(3)へ進む


戻る>物語 (1)