名もない物語 (1)
馬車の荷台には干し草が山ほど詰まれ、その中に身を隠すものがいる。
とにかく今は逃げなくてはならない。
逃げて、逃げて、逃げきって、後悔はそれからだ。

青年、いや少年と言うべきか。年恰好からして15〜16歳。
小柄な上、酷く痩せた体が年より若く見せているのかもしれない。
実際、彼の年齢は不詳だった。彼自身も自分の年齢がわからない。
生まれながらに孤児の彼は、幼い頃から他人に疎まれ、いつしかボロ雑巾のような
出で立ちで、物乞いをする境遇に置かれていた。
橋の上で日がな一日座っては、往く人を見送る毎日。
しかし、お金を恵んでくれるほど奇特な人に出会えるのは、そう滅多にあることではない。
こんな田舎の町でも、不況は長らく続いていた。

今から20年前、大国ダバトが100年に渡る同盟を反故(ほご)にして、一気に隣国ムーラ
へ攻め入ったのである。
当然ムーラとは連合国であるこの国からも、首都近郊に住む若者のほとんどが徴兵
され、戦地へ送られていった。
この町から幾つも山を越えた場所でのお話である。
物資が乏しくなったのは事実だが、この町の人たちにとって戦争は遠い国でのお話に
過ぎなかった。

物乞いの少年は、ある時、行き倒れの男から身ぐるみを剥ぎとることを覚えた。
男の服のジャケットには、金貨が3枚入っていた。
少年はそのお金で、何日分ものパンとミルクを買うことが出来た。
橋の上に座っていても生きてはゆけないことを悟った少年は、進んで乞食を見つけては
金品を奪うようになる。しまいには弱っていそうな年寄りや、女・子供からまでも、
強引に奪うようになっていった。
荒稼ぎしては町を流れ、暴力を振るうことさえ意とも思わない。

そしてとうとう、今日彼は、人をはじめて殺してしまった――。

腕から生温かいものが流れてくる。逃げる際、銃で撃たれたのだ。
幸い弾は貫通していたが、激痛は否めない。
少年は痛みに顔を歪めると、舌打ちをした。
へまをしたものである。
中年女の腕から強引にバックを奪おうとして、逆に取りすがられてしまった。
女と言えども、必死になったときの力は凄まじい。
手足の細い少年には、払おうにも払えない力だった。
早く片づけなければ、人が来てしまう。

少年は手近にあった石を拾うと、女の頭部めがけて思いっきり振り下ろした。
頭の骨に当たる衝撃が、掌に残っている。
意外にもその一撃で、女の腕は振りほどかれた。
ようやく立ち去ろうとしたその瞬間だ。いきなり銃弾を撃ちぬかれたのである。
女はひとりではなかったのだ。店から出てきた夫らしい男が、鬼の形相で銃を乱射した。
町の者たちがいっせいに押し寄せてくる。

あとのことは覚えていない。とにかく、無我夢中で逃げたのだ。
町を抜けて、山道へ入り、この馬車をみつけて飛び乗った。

早く止血しなければならない。
しかし荷台に横たわった体勢では、手当てもままならなかった。
もう少し。動くのはまだ危ない。
干し草の中で息を潜めていると、1時間くらい経ったであろうか。馬車は静に停止した。

「よーし。ご苦労だったな。褒美に干し草を食わせてやろう」
主人らしい男の声がした。
少年はごくりと唾を飲む。捕まったら処刑は免れない。
今日まで誰からも愛されず、誰からも必要とされず、人に憎まれ疎まれながらも、
ひとり懸命に生きてきたのだ。自分は悪くない。
食わなきゃ生きてゆけないから、人を殺したのだ。頭に血が上ってゆく。

“いっそ、この草掻き棒で、突いてやろうか?”

少年が棒に手を掛けようとしたときだ。一瞬早く、棒が引き抜かれた。
はっと息を呑む。面前の草が一気に掻きとられた。
「あっ!」
草掻きの鋭い刃が目前に迫り、少年は思わず声を漏らす。
「誰だ? そこに誰かいるのか?」
あけすけとなった視界に、ひとりの老人が立っていた。
少年は勢いよく飛び掛かる。が、すんでの所で崩れ落ちた。
「くっそぉ……」
少年は腕を抱えて膝をついた。痛みは全身に広がり、もはや立っていることさえ
出来ない。
老人の手が、空を掴むようにゆらゆらと近づいてくる。
少年の体が一瞬強張った。

「来るな、じじいっ!」
老人の手は何かを確かめるように、少年の髪の毛、目、鼻、口と触っていく。
動けない少年は、老人の顔を間近に見て、愕然とした。
「!」
白、いやグレーなのか。老人の開かれた眼球は何も映していないのだ。

「おお、ユーシス! お前はユーシスじゃないか! よくぞ生きて帰って来てくれた」
老人は歓喜の声を上げると、いきなり少年の体を抱き寄せた。
「ユーシス! 待ってたんだよ。私はお前が帰ってくると、ずっと信じていた」

頭がクラクラする。離れたくても動けない。
次第に薄れゆく意識の中で、ただ老人の声だけが耳に残っていった。

“ユーシスって誰だ……?”



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