サクラ
(1)

丘の上から見おろした街は本当にちっちゃくて、何もなくて、それでも温もりが
家々の灯かりからこぼれている。
テーブルにはパンとシチューが並び、パパとママがいて、ささやかだけど幸せな
暮らしがそこにある。
いっせいに灯った街燈とレンガ道。中心を流れるS字型の細い川のまわりには、
茶色い家が積み木のように並んでいた。

細い川は僕たちの街を抜けて、いつか海へと辿りつく。
両岸にはサクラの木が植えられ、川面はほとんど見えなかった。
ただ、S字型のサクラ並木が街をふたつに遮断している。

僕は日没までの間、必ずと云っていいほど、この丘の上で時間を費やした。
学校が終わってもすぐには帰らない。
家では弟のリューが僕の帰りを待ちわびている。
ママのいない家庭において、リューがどんなに淋しい想いをしているかは充分承知の
上だった。

仕事で帰りの遅いパパの代わりに、近所に住むママの妹が夕飯を作りに来てくれる。
ママの妹、つまり叔母のジニーは結婚はしていたが、子供はいない。
そのため、僕たちのことを大変可愛がってくれていた。

ママの顔を知らないリューはジニーをママのように慕っている。
僕も彼女が嫌いなわけじゃない。
ただ小柄で、今にも消えてしまいそうなほど儚げだったママと比べて、長身のジニーは
似ても似つかないほど活発な人だった。
彼女の明るい笑顔には、それはそれで励まされたりもしたのだが、リューと違って
ママの記憶がある僕には、容易には忘れることなんか出来なかった。


「遅いじゃないの。夕飯、冷めちゃうわよ。」
家に帰った僕を出迎えたのは、快活なジニーの声と、彼女にまとわりつくリューの姿だ。

リューは今年で7歳になる。
僕がママを亡くしたのも7歳の時だった。
体の弱かったママはドクトル(医師)やパパの説得も聞かずに、リューの出生を願ったのだ。
僕はママに似た小さな弟と引き換えに、ママを永遠に失った。
ママの選択が正しかったのか、僕には解からない。
ただ、パパとジニーの愛を一身に受けたリューは、この上なく健やかに育ってくれた。

「お帰り、キル。」
リューは僕の腰に抱きついた。
可愛いリュー。無邪気なリュー。
僕はさりげなく弟の腕を外す。
弟の粘っこい腕が僕を求めたが、僕は努めて自然に弟から離れた。

「キル、いつもいつも何をしてるの? もっと早く帰ってきてよ。」
甘えた上目遣いで僕を見る。
僕は気づかない振りをしてテーブルに座った。
サクラがいけないのだ。決まってこの季節は僕を憂鬱にさせる。

ジニーは僕の帰宅を確認すると、今度は夫のための夕食作りをしに自宅へと戻っていった。
彼女の夫は8時に帰宅する。それまでの余った時間を僕たちの家で過ごしていた。
いわゆる、まだ幼いリューのお守り役だ。
本来なら僕がすべき役目だったが、3月に入ると、リューの屈託のない笑顔がぼくの心を
圧迫した。
弟に罪はないのだ。だが、僕は笑えない。彼の存在がうとましくも思う。
この気持ちが何なのかは解からない。
ただ、僕はひたすら独りを求めた。

「ねえ、キル。ボクね、かけっこで1等になったんだよ。ねえ、すごいでしょ。」
リューが隣に椅子をくっつけて、僕の袖を引っ張った。
「うるさいな、今、食事してるんだよ。」
しかしリューは動じない。
神妙な面持ちで、僕の顔を覗きこむ。
無視する僕をよそに、リューは辛抱強く、僕が何か云うのを待っていた。
堪りかねた僕が口を開く。

「何だよ、用がないならあっちへ行けよ、」
ちょっと大きな声を出すと、リューは一瞬顔を強張らせた。
これ以上争う気のない僕は、まだ半分も食べていない食器を片づける。

「キルはいつもそうだ……。怒ってばかりいる。」
背中越しに声がした。
「……怒ってないよ。」
内心、僕は戸惑っている。リューには悪いと思うが、心のコントロールがきかない。
何がこんなにイラつくのか、自分でも解からないでいた。

リューの面影にサクラが重なる……。ピンク色の花びらが僕の体を取り囲む……。

「キルったら聞いてんの? ねえ、キル?」
リューの声に我に返った。
「キル、ジニーがね、サクラが咲いたらみんなで見に行こうって。みんなって、もちろん
ボクとキルと、パパとジニーとおじさんのことだよ。ねえ、いつ頃咲くのかな。ボク、みんなで
行くの初めてだから。」
「サクラ……、」
不意にサクラ吹雪が僕に襲いかかる。
一面のピンク……。ピンクの川……。
「ねえ、キル。キルったら、」
「!」
僕は思わずリューを弾き飛ばしていた。不意をつかれたリューは派手に床に倒れこむ。
僅か7歳の子供を相手に、力の加減が出来なかった。
弟が泣きだすのが解かる。
僕は自分が犯してしまった行為へのショックをぬぐえず、そのまま家を飛び出した。
リューの泣き声を聞きたくない。リューに合わす顔がない。
ゴメン、と素直に云えないくらい、僕の心は混乱していた。
正直、謝りたくないのだ。僕は悪くない。
サクラを見に行こうと云った、リューが悪いのだ。
……何故、悪い? 何故、胸がこんなに痛む?


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