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| 待つ人がいない家には帰る気がしない。 鍵がかかったドアを開ける瞬間がいちばん嫌いだ。 暗い部屋はそのまま僕の心までも飲み込む。 最初は僕を養うためだと我慢したが、彼女の表情を見ているとそうとも思えない。 単に仕事が好きなのだ。 お酒の臭いをさせて帰ってくるときは、ぞっとした。 「葉が色づくにはねぇ、条件がいる。日中は日光をたくさん浴び、夜は10度以下に冷え込む。 この気温差が必要なんだ。葉は重なっているから当然変化もちがう。 どの葉も同じなんて、有り得ないのさ。人もそれぞれさ。 生きていくには必ず誰かが必要。たとえそれが態度に表れなくてもね」 先程からいちいち癇(かん)にさわる。 生きていくのは誰かが必要だって? 母さんは仕事があれば満足なんだ。 僕は面倒のひとつでしかない。いや、邪魔なのだ。 それとも存在すら忘れているかもしれない。僕と母には会話がない。 「これで全部だな。やれやれ時間を食っちまった。もみじ山まで急いで飛ばなきゃ。 ま、1ページくらいボクにかかればあっという間だけどね。 キミにも迷惑かけたね。ちょっと掟(おきて)破りだけど、御礼をしてあげるよ」 御礼? 訝(いぶか)る僕に彼は笑ってみせた。思わず息を飲む。 漆黒の瞳は玻璃(ガラス)のように透明で、真っ直ぐに僕を捉えている。 月明かりに照らされた頬は白く、濁りがない。 浮き世離れした出で立ちが、いっそう彼の存在を危うくさせていた。 「それから、キミ。話がしたければ声を出さなきゃダメさ。 さっきからなんにも喋ってないよ」 「!」 心臓が走る。そうだ、僕は喋っていない! なのに彼はお見通しだ。 「き、君はいったい……」 「ははは。さっきも言っただろう。ボクは秋の使者。 もみじ山は今夜から明日にかけて気温が一気に下がるんだ。 ノルマだからね、ボクは行かなきゃならない。このキャンバスに彩(いろ)を散らすのさ。 筆を振るたびに葉は揺れて色を成す。今吹いている風は精霊たちの仕業さ。 一週間後、ボクが戻ってくるころまでには下絵も仕上がっているよ。 さ、出発だ。明日の朝、ここへ来てごらん。じゃあな」 「ま、待てよ」 衝動的に手を伸ばした。 手を振る彼の背後から風が押し寄せ、外套の裾がひるがえる。 低いうなり声が耳を貫いた。圧力に目をつぶる。 再び静けさを取り戻したときには、少年は姿を消していた。 * その夜、ようやく寝付いたころに母さんは帰ってきた。台所で冷蔵庫を開ける音がする。 聞くまいとするが、耳がどうしても母さんの行動を追ってしまう。 今、水を飲んで。次に浴室へ向かって……。虚しい。 母さんは何も気づいていない。僕がどんな思いで今日を迎えたかなんて。 無理やり思考を変えると、先程の不可思議な少年を思い出した。 あまりにとっぴ過ぎて、あれは夢だったのかと疑いたくなる。 だが、少年の言葉だけは妙に心にこびりついている。 彼の玻璃の瞳には嘘や偽りが見えなかった。胸が痛い。 それが優しさならば、なおさらだ。中途半端な愛情は人を余計に傷つける。 みんな勝手だ……。だいたい、なんだ。御礼なんて言っといて。 * 朝になると、通勤着に着替えた母と顔を合わす。しかし、忙しい母は僕と目も合わせない。 いつものように用意された朝食をとっていると、母はひと足先に家を出た。 会社へは一時間半もかかるのだから仕方がない。 戸締まりをして僕も出た。 空はすこぶる晴れている。 日差しは暖かかったが空気が冷えていた。そろそろマフラーが必要だ。 吹き抜ける風は秋を意味している。 学校へは公園が近道だ。僕しか知らない抜け道がある。 誰もが大通りをゆくなか、木漏れ日の道を進んだ。 前方に見覚えのある後ろ姿が見える。母さんだ! 母さんがなぜ? ベージュのトレンチコートが佇んでいる。声をかけようか迷った。 僕と母さんの心には立っている距離よりも遠い隔たりがある。 ――話がしたければ、声を出さなきゃダメさ。 どこかで聞いたようなセリフだ。空耳か――。風にあおられて母さんが振り向く。 「母さん、何してるの。こんなところで」 反射的に声が出た。なぜか気恥ずかしい。 母さんは髪を押さえながら僕を見た。久し振りの笑顔だ。 「見てよ、1本だけ紅葉してるの。ベランダから赤い木が見えたからまさかと思ったけど、 不思議なこともあるのね。ここだけ日当たりがいいのかしら」 見あげると、小さな赤い星が空一面に広がっている。モミジの真っ赤な葉だ。 光との陰翳が見事なコントラストをうむ。 繊細な葉陰の彼方にモザイクの青空があった。まさに芸術だ。 「父さんが死んで何年になる?」 「三年だよ。春に法事をしたじゃないか」 「そうだったわね。もう三年も経つのか……。早いものね」 僕は父さんを思い浮かべた。思い出す姿はいつだって僕が子どものころだ。 よくこの木の前でキャッチボールをしたっけ……。 「イロハモミジに桜もみじ。あと一週間も経てば紅葉するはね。 この三年間、季節を感じたことなんて一度もなかった。私もこの木を一緒。 行き急いだのね」 母さんも父さんのことを思い出している。僕は神妙な顔になる。 僕にとっての三年間は日ごとに寂しさを増すものだった。 一筋の風が流れた。 僕は気まずくなって時計を見る。時間がない。 無言のまま行き過ぎると、母さんが声をかけてきた。 「ねえ、今夜はごちそう作って待っているから、早く帰ってらっしゃい」 耳を疑った。今、なんて言った? 「ケーキも買っておくわよ。ゆうべ、あなたのお誕生日だったでしょう」 僕は振り返らなかった。涙だけは見られたくない。 ただぶっきらぼうに腕を振っただけだ。 ――END―― Copyright(C) Mizuki coco All Rights Reserved |
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