秋風に吹かれて (1) |
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特別な夜――。 どうしようもなく悲しくて、僕はひとり公園を歩いた。 街灯を避けて闇に紛れれば、少しは気持ちが楽になる。 ぬるい風に梢が揺れ、ざわめきが木霊(こだま)した。 両手を広げたら、飛べる気がする。 この木立の向こうに団地の灯かりは見えるけど、僕の家だけ点いていない。 最後に母さんと話したのはいつだったか。もう声さえ忘れそうだ――。 それはハプニングだった。 モミジとサクラの遊歩道で、僕は突風に襲われた。 それは風というより物だった。いや、正確には人だったのだ。 衝撃で僕も相手も転がって、バタバタと何かが散らばる音がする。 僕のモノローグは一気に壊された。 「……いってぇ。なんなんだよ、キミは」 言われて僕は唖然とする。 年は同じくらい。中学生といったところか。 僕は制服だか、彼はなんだ? まるで画家か探偵が着るようなケープの付いた袖なし外套(コート)。 落ちていたのは絵の具や筆。どうやら画家が正解のようだ。 「やれやれ、まさかこんな場所に人がいるとは思わなかったよ。ところで、ここどこ?」 「ここはモミジ公園だけど」 「モミジ公園? なんてこった、ボクはもみじ山へ行きたかったんだよ! 座標を間違えたかな」 彼は大仰に驚くと、草むらにはさまったキャンバスノートと羅針盤(コンパス)を拾い上げた。 画材は僕らの半径2メートルくらいまで散乱している。 拾うべきかと考えあぐねていると、少年が再び声をあげた。 「行き過ぎたんだ! ここはまだ早い。ああ、地上を確認するんだった」 不信な目で見る僕に気づき、彼はノートを広げて見せる。 それはデッサンだけのモノクロの僕の街だ。 「いいかい、これは季節カレンダーなんだ。ここに日付が書いてあるだろう。 この街は一週間先。明日はもっとこっちだ」 今度はデッサンのページを今日の日付まで戻す。 そこには黄・オレンジ・赤の色鮮やかな山の絵があった。 水彩で描かれた紅葉の色彩は、点描写のごとく色を放つ。 「きみが描いたの、これ」 「ボクの担当地域だからね。でも、その描いたっていうのはセンスがないな。 染めた、と言って欲しい」 少年は自慢げに僕を見おろした。笑い方が生意気だ。 絵は確かに上手かったが、話の内容と恰好は尋常に思えない。 あるいはこれが芸術家というものなのか。 僕は彼から目をそらすと、足もとのチューブを拾った。 イエローペール、カドミウムレッド、ウルトラマリン。 「それが三原色。知ってるだろう? その三つでどんな色も出せる。普通の使者ならね。 でもボクの感性からいくと、そんなんじゃ満足できない。 色彩と視覚はもっと緻密な関係なんだ。どの構図から見るか、太陽の光がさす方向は、 距離は、どれも完璧(パーフェクト)じゃなきゃいけない。 だからボクの染める木は紅葉名所(スポット)として名高いんだよ。 ボクは三ツ星の称号をもらっているからね」 彼は自分の襟元を指す。そこには赤いモミジの葉を象ったピンバッチが三つ並んでいた。 ただそれだけだ。僕にはなんの意味も持たない。 だいたい彼の言ってることは理解できない。 僕はため息をついた。 これ以上話を伸ばすよりも、荷物を拾ってやるほうが懸命だ。 早くひとりになりたい。 「ひとりになってどうするのさ」 「え、」 「キミ、今ひとりになりたいって思ってるだろう。ははん、だからこんな夜の公園にいたのか。 おや、死にたいとまで思っている。まったく、人間はおかしな生き物だな。 余計なことばかり考えて」 いきなり本心を突かれて動揺した。 だが、その軽蔑を含んだ物言いに腹が立つ。 僕の何がわかるっていうのだ。こんなヤツにわかるはずない。 「こんなヤツとは心外だな。ボクは秋の使者。ボクもキミも花も木も、みな自然の一部だ。 これは季節カレンダーだって言っただろう。一年間の季節はその一年の始まりに決まっている。 この地域は春が始まり。すべてはカレンダー通りに進むんだ。 春には花が咲いて新緑の季節となり、秋は紅葉。 つまりさ、ボクもキミも勝手に死ぬことなんてできない。 寿命ってやつがあるのさ。自然の摂理だからね。 昨日がつまらなくても、今日が悲しくても、明日が辛くてもさ。 それぞれサイクルが決まっていて、悲しみも喜びも半分ずつある。 たとえキミの現在が死にたいほど辛くても、カレンダーを見ればそれはつかの間の出来事だ。 人の一生なんてたかが知れてる。ここで死ぬのは馬鹿げてるよ。 だって未来に待っている楽しいことを放棄するんだからね。 喜びだって、そこらじゅうに転がっているのさ。 美味しいプリンを食べたり、犬と遊んだり、新しい襟巻(マフラー)を巻いたりね。 笑わない人間がいないのと同じさ。 泣くときもあれば、怒るときも笑うときも必ずある」 簡単に言うなよ! ひとり力説する少年に説教された気分だ。僕は無言で画材を拾う。 「いけねぇ。時間がなかったんだ。キミ、悪いね」 絵の具を拾いながらも、考えるのは母さんのことだ。今日は何時に帰るのか。 三年前に父が急逝し、母は以前勤めていた出版社に復帰した。 もともとはエプロンよりもスーツが似合っていた人だ。 母は悲しさから逃れるように仕事に打ち込んだ。 朝は僕より早く、帰りは何時になるのかわからない。 夕飯は冷蔵庫に入っているもので済ませる。 何もないときは、テーブルに金だけが置いてあった。 (2)へ進む 戻る> 物語 |