愛犬ルー

今朝もパルマの眠りを邪魔したのは、愛犬のルーだ。
カーテンのすき間から零れる光よりも、くすぐったい洗礼は、ルーの日課だった。
パルマの顔を、これでもかと云わんばかりに舐めまわす。
パルマと同じく年老いたルーも、この時ばかりは無邪気に体を弾ませた。

「解かったよ、起きるよ。……ルーや、おはよう。」

パルマは上体を起こすと、ルーを自分の体の上に抱き上げた。
ルーは短いシッポをちぎれそうに振る。
黒くて丸い瞳には、パルマの優しい笑顔が映っていた。

ルーは雑種の小型犬だ。
不揃いに伸びた茶毛と、たれた耳は、お世辞にも可愛いとはいえない。
それでもパルマにとっては唯一の家族であった。

15年前、妻に先立たれ途方にくれるパルマのもとへ、迷い込んできたのがルーだ。
以来、パルマとルーの共同生活は楽しく続いている。
ひとり娘も、今や遠い異国へと嫁いでいってしまった。
こんな田舎の辺境の地に、独りでも耐えられるのは、ルーがいるからだ。

近所には人のいいチェルシー夫妻がいて、時おりパルマの様子をうかがいに来てくれる。
夫人は、一人じゃ大変だろうと、何かにつけてはフルーツやスープを運んできてくれた。
パルマは可愛いルーと優しい夫妻のお陰で、いつでも温かい気持ちで一杯だった。

「ルーや、さあ、ご飯をあげよう。おや、夕べのご飯を残しているね。ちゃんと食べなくちゃ
いけないよ。」

パルマは、新しいご飯をトレイに入れてやる。
チェルシー夫妻が、彼のためにくれた、とっておきのハムだった。
かわりにパルマは、スープだけを飲んだ。

春だというのに、今日は特に冷える。
パルマは簡易ストーブをつけて、ゆり椅子に腰かけた。
ルーも続いて膝に飛び乗る。
パルマはルーの頭を優しく撫でながら、目をつぶった。
……真っ先に、妻の姿が浮かび上がる。

妻は明るく元気で、病気などには縁のない人のはずだった。
そんな彼女がベッドに伏して、あっという間に天に召されてしまったのだ。
いつも豪快に笑う妻は、パルマにとっては太陽そのものだった。
お金に困った時は「くよくよしても、始まらない」と云って、せっせと内職をしてくれた。
気弱なパルマが、迷ったり悩んだ時も、「辛くたって楽しくたって、必ず明日は来るんだよ」
と云って、美味しい料理を山ほどこしらえてくれた。

パルマの目に涙が光る。
気持ちが伝わったのか、ルーが顔を上げて、パルマの手を一心に舐めてくれた。

「ルーや、おまえは何でも解かっちまうんだね。よしよし、いい子だ。」

ルーは、その黒い瞳をまっすぐパルマに向けた。
パルマは涙を拭く。

「悲しいんじゃないよ。懐かしいだけさ。思い出というのは、いつだって美しい。」

不意にルーの姿が、霧のように広がった。
かと思うと、面前にはあの妻が立っている。
パルマは思わず立ち上がった。

「おまえなのかい?」
妻は太陽のように力強く微笑んだ。
「なんてことだ。、また、おまえに逢えるなんて……。」
パルマが近づくと、妻はゆっくりと背を向けて、彼を外へと導いた。
パルマが扉を開けると……

「おお、花だ! なんて美しい光景なんだ、」
家の外一面に、白い花が咲いている。
「春だ、春が訪れたんだ、」
近頃部屋に閉じこもりきりだったパルマは、季節の変わり目に気づかないでいた。
白い花の中で、妻が手を差し伸べている。

どこからともなく、音楽が流れてきた。音楽かと思ったら、それは妻の鼻歌だった。
妻が食器を洗う時、いつも口ずさんでいたメロディだ。
パルマは妻の手を取ると、いつまでも二人で踊りつづけた。

昨日はまるで、季節が逆戻りしたかのように、一日中雪が降り続いていた。

チェルシー夫妻がパルマの家を訪ねるのは3日振りである。
突然の雪に、さぞかし不便をしているだろうと、温かいシチューを差し入れに持って行ったのだ。

だが、開け放たれた扉に、夫妻は辺りを見渡した。
純白に染まった庭の奥に、小さな墓標がぽつんと見える。
一年前に死んだ、愛犬ルーの墓だ。
その前に、崩れるようにして倒れている、パルマの姿があった。
夫妻が慌てて駆け寄ると、パルマはすでに冷たくなっている。
しかし、その寝顔は、どこか微笑んでいるよう見えた。

                 〈END〉


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