マリーの懐中時計
ゴールデンレトリバーのマリーが、鼻を鳴らしながらしきりに地面を掻く。
川から吹く風が膝丈の草を揺らすいつもの散歩道。
見晴らしのいい土手で、僕らは草の海にいた。
「なにかあるのかい」
土から金属の一部が見えている。
掘り起こすと古い懐中時計だ。
マリーが意味ありげに鼻を近づける。僕はマリーの頭をなでた。
「さ、遊んでおいで」
リードを外すと、マリーの金色の毛が草の波に消えていった。

     *

「ダメ、お父様が目を覚ましたわ」
アメリカ西部の小さな町。
町長の屋敷で娘のマリーはダイと息を潜めた。

ダイは酒場の主人の息子で、身分違いの恋は彼のみならず家族の命取りにもつながる。

マリーはダイの頭にシーツをかぶせた。
自分も黒い外套(マント)の頭巾をかぶり、目立つ金色の髪を隠す。
これで誰もふたりだとはわからない。

部屋を出ると、階下から使用人の声が聞こえた。
「ご主人様、二階で確かに人影がみえました。盗賊かもしれません」
これでは下には行けない。

わずかな町灯かりのもと、眼下には濁流がみえる。
屋敷の裏に沿って流れるタイムズリバーだ。
「そこにいるのは誰だ!」
マリーの父が銃をかまえた。
「ダイ、これを私と思って持って。しばらく会えないわ」
逃げられないと悟ったマリーは、ダイに銀の懐中時計を握らせた。
なんとしても彼を救いたい。
「動くと撃つぞ!」
マリーは渾身の力を込めてダイを川へ突き落とした。

銃弾がマリーの胸を貫く。
黒の頭巾が外れて金色の髪がこぼれた。
「マリー!」
落ちてゆくダイの目に、崩れるマリーの最期がみえた――。

     *

イギリスはロンドン。
橋の石畳にダイの影が伸びている。
ガス燈の下、時計の蓋を開けた。約束の時間だ。
ダイは彼女に貰った時計を愛しげにながめた。

戦争がはじまってマリーの兄も入隊した。
よもやこの街も、いつ戦場と化すかわからない。
ふたりはママの目を盗んでは、たびたび橋のたもとで落ち合った。

レンガ壁の角から、水色のドレスが姿をみせる。
「マリー」
手を振ると、彼女の金色の髪が強い光に照らされた。
反射的に上をみる。サーチライトだ。
巨大な飛行船が突如、建物の陰から現れた。
続いて爆音が響く。
「逃げろーっ」人々の悲鳴と叫び声。敵襲だ!

足がすくんで動けないダイの手を、マリーが引っ張った。
「なにをしてるの。逃げるのよ、ダイ」
執拗に追うサーチライトをくぐって、ふたりは橋の向こうへ逃げた。
爆音が間近に迫る。

「間に合わない。ダイ、ここから飛び込みましょう」
「ダメだよ、マリー。ここは深い」
マリーはダイの背中を無理やり押す。
同時に強い爆風がダイの身体を持ち上げた。
マリーの水色のドレスが白煙に包まれる――。

     *

くすぐったい舌の感触で、僕は目が覚めた。
空はすでに暮れかかっている。
ひとり遊びに飽きたのか、マリーが僕の頬を舐めまわした。
「わかったよ、マリー。起きるって」
草むらに上体を起こして、マリーの顔を両手で包む。
金色の毛が夕陽を浴びて輝いた。

僕はマリーを連れて川岸に腰を下ろした。
水面に手を伸ばし、時計をすすぐ。
現れた銀蓋の表面には『Marry』と刻印がされていた。
「バカげているな」
目覚めが悪いとはこのことで、ひどく悲しい気持ちが胸に淀んだ。

「大(ダイ)、マリー!」
呼んだのはふたつ上の兄だ。土手から手を振っている。
僕も片腕をあげて答えた。
「さ、家に帰ろうか」
マリーも嬉しそうに尾を振る。

リードをつけようと立ち上がると、踏みつけていた草が滑った。
途端に天地を見失う。
次の瞬間、水しぶきをあげ僕は川へ落ちた。
必死に水上へ顔を出す。岸ではマリーが激しく吠える。
兄の声も聞こえる。

僕が再び水に沈む刹那、
川へ飛び込むマリーがみえた――。


            ――END――

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